Orson Wells(オーソン・ウェルズ)の言葉です。
いろんな受けとり方があると思うのですが、
この言葉を見ると、私はいつも自分のカジノ時代を思い出します(笑)。
あ〜あのときやめてれば、勝ってたのになぁ〜。
あの負けたお金が悔しいな〜。
ハッピーエンドだったのに、つい「もうちょっと・・・」の誘惑に負けて
not-so-happy endingに、あるいはtragedy(悲劇)になってしまうことがあったなぁ〜。
・・・こんな次元の低い話をしたら、市民ケーンに怒られますね(笑)。
別にオーソン・ウェルズは「ハッピーエンドで終わらせれば悲劇はなくなる」
と言っているのではないんですよね。
悲劇もある。ハッピーエンドもある。
じゃあ、あなたは自分の物語をどこで終わらせますか?
「終わりよければ・・・」ではないですが、
終わりがハッピーならそれまでのことはすべてチャラ、と
私たちは考えがちです。それでこれまでの苦労が報われた、と。
私もいつもそう思います。
でもだからといって、過去の苦労が、すべてのハピネスを呼んでくれるわけではないので
自分が欲しいハピネスが手に入らないと、「あ〜あ・・・」となります。
もちろん、自分が欲しいハピネスを手に入れるために苦労しているわけですので、
それがもらえないなら、なんか苦労し損じゃん、と思うのは無理もないですね。
例えば、ある業界に転職したいから、
一所懸命いろいろな人に会って何とかきっかけをつかみたい人がいました。
でもなかなか自分が行きたい業界の人には会えず、その周辺の人ばかりを紹介されて、
結局転職にはものすごい時間がかかってしまった。
ちょっと不満の残る何ヶ月かになるでしょう。
「○○業界に行きたい」って言ってるんだから、
どうしてその業界の人を紹介してくれず、他の業界の人にばかり会わなくてはならないんだっ。
時間の無駄。・・・・でしょうか?
確かに
(1)「自分の行きたい業界じゃない人にばっかり会っていた」時点で物語をとめてしまえば、これは「悲劇」です。
(2)「それでもなんとか最後は自分の行きたい業界に就職した」という時点で物語をとめてしまえば、「悲劇」でも「ハッピーエンド」でもない「活動記録」です。何故ならその時点では「自分の行きたい業界に就職できた」ことより「時間がかかった」という「回り道感」の方があなたを強く強く支配しているからです。
(3)「自分の行きたい業界じゃない人にばっかり会ってたんだけどなんとか就職したら、何年かしてその時に会った人たちと再びつながり、ビジネスを拡大できた」という時点で物語を見返せば、それは「ハッピーエンド」にもなりますね。
物語の流れを考えるときに、もう一つ大切なことがあります。
私たちがつい忘れてしまいがちなのは、私たちが経験していくもの、というのは
「○○をしたから××になった(××が起こった、××をもらった・・・)」というように
「点と点」で簡単に解明できるものだけではない、ということです。
剥げたら塗り直してあげるペンキ塗りみたいに、
きれいなカベを目指して、私たちはずっと「努力」を続けてるんですね、いつも。
でも普段はそれに気づきません。
でもあるとき、カベの半分まで塗ったのに、初めの1/4がパラパラと剥げてしまった!
そんな「悲劇」に見舞われると、ペンキブラシを投げ出したくなります。
その「努力」をやめてしまいたくなります。
そしてスネてしまいます。凹んでしまいます。
確かにそんなときはペンキブラシをおいて、ちょっと休んでみましょう。
だって「やってられない」ですもんね(笑)。あ〜、やってられない。
でも違いが出るのはその後です。
ある人はその後すぐブラシを手に取って、塗り始めるでしょう。
ある人はちょっと時間をおいてから塗り始めるでしょう。
ある人はブラシを新調するかもしれません。
ある人は友達に助けを求めるかもしれません。
そしてある人は「次のカベ」に移るかもしれません。
そのどれもが間違っていないと思います。塗り始めることがキーなのだと、私は思うからです。
また「塗り始める」ということは、またその先の「ハッピーエンド」に向かって
動き始めることに他ならないからなんです。
「悲劇」は必ずあるし、また、自分も「悲劇」だけを見てしまうこともある。それは仕方ない。
でも自分の物語を「悲劇」では終わらせない。
・・・そう思えれば、自分に残るのはいつも「ハッピーエンド」、というのも
夢ではなくなるような気がします。ちょっとチカラがいりますけど(笑)。