Francois de La Rochefoucauldの言葉です。
他人の不幸は 蜜の味。ですね(笑)。
Shaudenfreude(シャーデンフロイデ)。人の不幸によって感じる快感のことです。
高速道路で「こんな時間に混む訳ないのになぁ〜」と思っていると、
大抵の場合事故なんです。
自分の側が事故ならまだ我慢できるのですが、
事故は反対側の車線なのに、Rubbernecker(事故の様子を見ようと首をなが〜くのばしてるんですね)
のせいで混んでたりすると、むかっ、とします。
・・・でも自分がそこを通るときはやっぱりスピード落としている・・・
「野次馬根性」、これも哀しい人間の性ですね。
寛容さ、優しさ、同情、憐れみ。
これらはみな紙一重の感情だと思います。
そしてもちろん、その意図は崇高で純粋だ、と思います。
でもどこかにほっとするような感覚、つまり、
一点には「ざまを見ろ」、次の一点には「自分じゃなくてよかった」
そして最後の一点には「私はこんなことをしてあげられる立場にいられてよかった」
という3つのメモリを持った秤の、どこかに落ち着く感覚を感じることもあるわけです。
「いや、私はそんなことを感じることはない」と思った方は、ごめんなさい。
それは素晴らしいと思います。
ただ、私はあまのじゃくで、どうもそう考えてしまうんですね。
だからこういう感情があると聞くと、なるほど、とヒザをたたいてしまいます。
恥ずかしいのですが、私は以前親しい友達に
「私が何かをやってあげるときは、やって「あげる」と思っているんだから
自分の優越感を満たすためにやってるんだね。だからどうか許して受け取って」
とお願いしたことがありました。
・・・歪んでますね。思春期だったんです(笑)。理解してくれる友人にしか言えないことです。
この間岩波書店の小雑誌「図書」で
孫歌さんの「北京便り(17)」を読んでいましたら、
ほう、と思うことが載っていたので、ちょっとご紹介したいと思います。
魯迅の言葉です。
この魯迅のロジックに、あまのじゃくの私はちょっと救われたような気になりました。
魯迅はよく「善行」を「人をだます」ということだと考えたそうです。
でもそれは決して「偽善」ということではないんだそうです。
あくまで誠意にあふれる善行。
それなのに、例えば難民を助けた魯迅は、その後で
「石鹸かなにかを喰った」ような気持ちになった、と孫歌さんは引用しています。
「善意で行った行為でも、必ずしも善の結果をもたらさないことを百も承知で行うことであり、
行いながらもその行為に決して満足しないという意識であろう」と孫歌さんはまとめています。
そうか。善の行為の結果をいつも疑う。
もちろん、そんなことだけ考えてたら、何もできない、何も信じられない。疲れます。
自分がやっていることが無意味に思えるかもしれません。
でも、そうではなくて、善行に励みながらも、
自分の中でそういう牽制システムがある、というのも、
それはそれで善行をさらに少しだけ崇高なものに近づける努力につながるのでは、
と思うのです。
自分を過大評価せず、過小評価せず、人間としてありがちな自然な感情を受け止めて
本当に大切な幸せを人に分けてみる。
決して満足しないで、でもだからこそ、謙虚に誠実に努力し続けてみる。
日々の小さなことでも、そうすることが大きな善行なのかもしれないですね。