怨みに報ゆるに徳を以てす(Requite anger with virtue)

Lao-Tsu、老子の言葉です。

英語だと「Anger」となっていますが、「怨み」って、いろいろな形や感情があります。
・・・コワい字ですね。
いつまでも忘れられない、どろどろしたもの。
瞬間的にかっかと湧いてくるもの。
ルサンチマン。
韓国で言う「恨(ハン)」という感情も、
定義がなかなか難しい「怨み」の一つでは、と思います。

どんな形であれ、なかなか手強い感情です。
でも人間だったらなかなか逃れられない感情でもあります。
「怨み」って、手強いのに加え、ちょっと哀しい感情だなぁ、と思うのは私だけでしょうか。

・・・それでも短気で執念深い私はしょっちゅうぷんぷん、うじうじしています。

「穏やかな人」というのはたくさんいます。
あの人、怒ることあるのかなぁ。
また「怒ってる」とはいうものの、こっちが「ホント?!」と思うくらい
「穏やかに怒る人」もいます。
でも程度の差こそあれ、誰でも「怒ったり」「気分を害したり」すること、
というのはあるのではないでしょうか。

それが、私たち「人間」です。

自分の思い通りにならないとき
自分のいやなところに触れられたとき
そして人に意地悪をされたとき
「ぴくっ」と頭をもたげる感情。

そしてそれは
嫌みを言ってみたり
怒鳴ってみたり
暴力を振るってみたり
自分を傷つけてみたり
自分のカラに閉じこもってみたり
夜枕を濡らしたり
そんなことで現れます。

でもそれで完全にすっきりすることはそうないですよね。
先ほど私が「怨みが哀しい」と言ったのは、きっと
その先にすぐ効くすっきりした解決方法がない、
と思っているからかもしれません。

「怨み」の回復法は、ほとんどが「プロセス」だと思います。
つまり、特効薬なんてなかなかなくて、
少しずつ少しずつ癒えていくものの方が多いと思うのです。
子供のときは「泣いたカラスがもう笑った」ということもありますが、
大人になってしまうとそういうことも格段に減ります。

・・・それだけでも大変なのに、
老子先生は「徳をもって」そのプロセスにあたれ、と言っているわけです。

そんな余裕は、ありません(笑)。

でもここで一つ考えられることは、
この「徳」は大きな「善行」だけではないのでは、ということです。
「右の頬を殴られたら左も差し出す」だけではないのでは、ということです。

怒鳴る→相手も怒鳴り返す
殴る→相手も殴り返す
報復する→相手も報復仕返す
という哀しいスパイラルを「ちょきんと切る」
それも「徳」なのではないでしょうか。

自分のイヤな感情、それがたとえ相手に非があっても
受け取り、気づき、昇華しようとするプロセスにあたれる。
それが「徳」なのでは、と思うのです。
決して「怒るな」「恨むな」「怨むな」ということではないんですね。
「怨む」ということをきちんと知っているからこそ、
頑張る努力が「徳」になるんですね。

もちろん、その「怨み」は手強いですから、
「徳」をもって頑張ってるその過程でも、容赦なく私たちを苦しめるでしょう。
仕方ありません。人間ですから。だからこその「プロセス」なんでしょう。

それでも少しずつ少しずつ、「徳」を積んでいきたいと思うのです。
今度怒ったら、怨んだら、心を鎮めて考えてみたいと思います。

最後にこちらをぷちっとしていただけると幸いです

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