悲しみを知らない人は、幸せの本当の意味が分からないだろう(I do believe that if you haven’t learnt about sadness, you cannot appreciate happiness.)

ギリシャの歌手、Nana Mouskouri の言葉です。
金八先生みたいですね(笑)。
「優しいという字ばよく見てみぃ。人ン横に憂いが立っとろうが。悲しみが立っとろうが」

人は悲しみが多いほど 人には優しく できるのだから。

・・・私たちの世代には懐かしいお話です。

本当なら、辛い悲しいことなんて体験しない方がいいのに、と思ってしまいます。
それでも避けて通れないのが私たちの毎日です。
「SACHIKO」さんも「不幸せ数えたら 両手でも足りない」そうです。
・・・涙って、本当に枯れるのでしょうか。

「喜び」や「悲しみ」というものに、相対的な大きさはないと思います。
つまり「あの人の悲しみの方が自分の悲しみより大きい」ということはない。
それがその人にとってインパクトがあるものならば、
それが例え他の人にとって取るに足らないものであっても
ものすごく幸せになったり、さめざめと泣いてみたりします。

でも何故か、特に悲しみというものは
つい他人のケースと比べてしまうことがあります。
もしかしたら種類の違う悲しみはあるかもしれませんが、
それでもやっぱり、悲しみには絶対的な大きさしかないと思うのです。

でも他人と比べて「あんなに大変な人がいるんだから、私は頑張ろう」
と思うことは、切ないですが、何とも尊いことだと思います。
あの大きな震災の際にアメリカでは
「震災時でも人を思いやり秩序を守る日本人」が話題になりました。
もちろんそれは、あの大惨事のほんの一面を切り取った報道でしょう。
そしてそれは世界のどこでも見られる光景でもあるでしょう。
それでも日本人の、というか人間の高潔さが垣間見られる瞬間です。

反対に「私は一番辛い。一番悲しい。一番大変。誰にも分からない」
こう思ってしまうときがあります。
これは本当に辛いことだと思います。

誰にも分からない

そう思った途端に私たちは外の世界を遮断します。
本当は手を差し伸べて欲しいのに、差し伸べてくれる人はいるかもしれないのに
そのチャンスを自ら放棄し、拒否します。
そしてその閉じられた暗闇で、
私たちはその悲しみを培養し増殖させてしまうんですね。
時にはそれで体調を崩してしまう方もいます。

「自分が悲しく感じている」はずが、いつの間にか
自分がその「悲しみ」になってしまうことがあります。
自分が悲しみの中でもがいている。
それがあまりに辛くて重くて、自分がその悲しみに同化してしまうのでしょうか。
自分のアイデンティティが「悲しみ」、というのは辛いですね。
極論すれば、その後その「悲しみ」を取り除こうとすると
アイデンティティを失うような気持ちになってしまうかもしれません。

でも強い感情の渦中にいるときは、なかなかその感情を客観視することが難しいです。
その渦の中で逆行しようとしても、溺れてしまいます。
だから悲しみを、自分の悲しみとしてしっかり受け止める。
渦に巻かれて悲しみを「評価」せず「感じる」
何を感じてるのか、何で感じてるのか、分析するのではなく「感じる」。
辛いのですが、とても大切なプロセスだと私は思っています。
そしてそのプロセスを助けてくれる人が周りにいるのは、
本当に心強いことです。だから、拒否しない。

そしてどうしても、どうしようもないときは、きちんと助けを求める

幸せ」は、やってくるものではなくて自分がそう決めるものだと思います。
自分の悲しみを通過した人は「これを幸せと認定しよう」と思えるものも
しっかり感じ取れるのだと思うのです。

最後にこちらをぷちっとしていただけると幸いです

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