この明鏡を常にきれいに光らしておき、その面前に来るものは何者によらずそのままに必ず映るようしておくことである(keep this mirror always bright and pure and ready to reflect simply and absolutely whatever comes before it)

Daisetz Teitaro Suzuki(鈴木大拙)「Introduction to Zen Buddhism」からです。

私は、「言葉」が大好きです。
何故なら「言葉」は美しいし、
ただ目の前にあるもの、見えるものだけでなく、
その背景にある豊かな文化を伝えてくれるからです。
ですから、他国語を聞くのも習うのも大好きです。
その「言葉」が生まれ育まれた背景に想いを馳せるのが好きなんだと思います。

大学時代に1回だけ挑戦したエスペラント語だけは
残念ながら、見事に何も残りませんでした。
構想は雄大だと思ったのですが、
・・・多分、私には血が感じられなかったのかもしれません。
「言葉」は、記号じゃない。・・・はず。「言語」だけじゃない、はず。

・・・でもその反面、私たちはその美しい「言葉」と論理によって
がんじがらめにされることもあるなぁ、とも思います。

この「明鏡」は、「心」の状態を指すそうです。
「心」をいつも澄んだ鏡のように持っておれ、ということです。
そして、ただ映せ、と。
目の前にあるものを、あるがままに映せ。

私には、この言葉がとても響きました。

私たちは、言葉に囲まれて生きています。
そして年を重ねれば重ねるほど、
何かを表現する方法を得ていきます。
それは子供の時分より表現がうまくなったということなのか、
という問いには俄には答えられませんが、
少なくとも、道具が増えていくのは確かです。
言葉巧みに、時に装飾し、時に武装できるようになるのです。

でも時にその言葉が邪魔をすることがあります。

私たちは心の鏡に何かが映った途端に
「キャプション」をつけてしまいがちです。
それが何であって何でないか、
絶対的なClarityをもって映す前に、
もう結論づけてしまうのです。

そんなとき、言葉が「明鏡」に付いたになったり
くもりになったりするのです。
「明鏡」を歪めることもあるのです。

「明鏡」のステージになるのは、並大抵ではないらしいです。
それに、日々の生活で毎日、すべてのことに心を「明鏡」にしてたら
ちょっと大変そうです(笑)。

でも、本当に大切なものを見るときに、
例え習慣から一度キャプションをつけてしまったとしても、
ふと思い立って、はぁ〜っと息を吹きかけ、
きゅっきゅっと心の鏡を拭いてみるというのもいいな、と考えました。

見たくないものも見えるかもしれませんが、
見えなかったものも見えてくる。
それをまず意図なしに、掛け値なしに受け取る。

「AであってAでない」。「A」という名前はつけない。
それはそのモノの存在自体に生命を吹き込むことなのだと思います。
”「知的解剖」を辞める”

自分の価値観や先入観やロジックは
常に物事を少なからず歪曲して私たちに伝えます。
例えば私たちは自分が今感じている感情にも、
いとも簡単に「あ、これはムカつき」「あ、これはプチ鬱」
などとラベルをつけます。
人に対しても、そうです。「あの人、できない」「あいつ、うざ」
ラベルを付けた途端、それは一人歩きを始めます。

時にちょっと心の鏡を掃除して、
きちんと受け止めてみることを練習してみる。
「禅」はまだまだ分からない私ですが、
それは意識できそうです。
そしてそこで何かが感じられるかもしれない、と考えた次第です。

最後にこちらをぷちっとしていただけると幸いです

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