おバカなお利口になるよりも、お利口なおバカになれ。(Better a witty fool than a foolish wit.)

シェイクスピアの言葉です。
この言葉は有名な「十二夜」に出てくるもので、
きちんとした訳もあるのですが、
私はこんな感じに受け取りました。

なんだか、私がいつもなりたいと思っていた「礼儀正しい不良」や
フットワークの軽い小太り」に通じるものを勝手に感じ、
ぴくん、と反応してしまったのだと思います。

昔「刑事コロンボ」という番組がありました。
コロンボは万年警部補。よれよれのコートにポンコツ車、
よぼよぼの犬を連れたコロンボを、誰もキレ者のデカとは思いません。
その彼が後半眼光鋭く犯人を追いつめるのを、
私は毎週小気味良い思いで観ていました。

・・・もちろん、私はコロンボを「おバカ」だと言っているのではありません。

 

 

人は人を、それぞれの尺度で計ります
尺度は人それぞれですが、「何となく多くの人が持っている尺度」というのもあります。
きっと何か経験則のようなものに基づき、そんな尺度が作られてきたのでしょう。

例えば、学歴。それがやけに注目されることがあります。
”いい”大学を出た人はその尺度を持って「お利口」と呼ばれます。
確かに偏差値の高い大学に行かれた方は、それなりの何かがあって
行かれた方がほとんどでしょう。
ところがそういう人は、何か小さな失敗や汚点があると、
ことさらに「おバカ」だと呼ばれます。

逆に世間一般に「おバカ」とされている人たち。
ところがその「おバカ」を否定することもなく
その実素晴らしいチカラを発揮すると
「実はお利口」と呼ばれます。

「お利口」なのに人付き合いが下手な人。
「おバカ」なのに、ある一芸に秀でた人。

人は一面では判断できません。いろいろな面を持っています。
と同時に、それぞれの「一面」は、
その人を形作るモザイクの1ピースであるのも確かです。
その人についての「何か」を語ってくれる

人がそれぞれ自分の尺度で人を計ることは、悪いことではないと思います。
しかし、「ただ一つの尺度で」計ることは違うのではないか、と思うのです。
自分が持っている「いろんな尺度」で計ればよいと思うわけです。

ある1ピースを得ただけで、全体の像を見切ってしまうことは
その時点でその人に対する興味を失ったことと同じなのではないか。
私はそう考えます。
そしてその後は、自分勝手な人物像が上塗りされていく。
「あ、あいつはこういうやつだから」
正しい場合もあるでしょう。
でももう少しいろいろ見てから、確認してもいいのではないでしょうか?

その人の一つ一つの「面」をみながら、
その人の像を根気強く組み立てていく。
そういうことが何となくその人との関係を大切にしていることのような
気がします。

もちろん毎日「さあ、今日も新しい一面を見つけるぞ」などと
気合いを入れて探る、ということではありません。
まだまだいろいろな面があるかもしれない、と
感覚をオープンにして構えていればいいのだと思います。

・・・それでも私たちはどうしてもあるステレオタイプで判断し、
判断されてしまう。
私はいつもそこから抜け出したい、という思いを持っていたように思います。
「だって違うもの、私」。
そんなあがきを持っていたように思います。
何だか悔しくて(笑)。
それでも、いずれステレオタイプで見られてしまうなら、
意外性を生きてみるとしますか。

最後にこちらをぷちっとしていただけると幸いです

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