誰でも本当は命が勝つ、と信じているはずだ。でなければ、みんなとっくに死んでいる(All living beings believe that life will triumph, otherwise they would die on the spot.)

アランの幸福論からです。

ここ数日来、何故か友人たちの話に何かしらの共通点があり
それがきっかけで考えたことがあるので、
今日はそれについて書いてみよう、と思い立ちました。
自分のココロに優しい刺激を与えてくれる友人を持っている、
というのは本当に幸せなことです。
しかもその当人同士は知らない友人たちなので、
なんだか不思議な気分でした。

困難や悲しみは、なんと的確に私たちを苦しめることでしょう。
起こるべきときをきちんと知っています。
こちらが辛いとき、弱いときをきちんと知っていて
さらに私たちを絶望のどん底に陥れることがあります。

自分にそんなことが起こればもちろん辛いですが、
自分の大切な家族や友達に起こっても
まるで自分のことのように辛くなります。

なんて言ってあげればいいんだろう。
時間が解決する?
いつかいいことが起こるよ・・・?

それはそうかもしれないけど、
そんな簡単じゃない・・・
そう言っている自分もいます。

アランはそんなときこそ「喜びを知れ」といいます。
幸せを知る。そうでなければ、人に幸せなんて分けてあげられない。
自分の知らないものを人にあげることはできない。
自然の成り行きを信じて、命のチカラを信じて、
明るい未来をみようとする。

悲しい人がいたら、寄り添ってあげることはできる。
でもそこに同情や憐憫しかなければ、
二人いてもそこには悲しみしか生まれません。
悲しみは尊くもないし、美しくもないし、
ましてや何の役にも立ちはしない

悲しい人の前で、自分は幸せでいいのだろうか。
誰もがいろいろな局面でいろいろなレベルで考えるこんな問いに
アランはきっぱり「Yes」と言い切ります。
そしてそのときこそが、自分が人に自分の幸せを分けてあげられるときだ、
というのです。

もちろんそれは、辛く悲しい人の前で無神経になれ、
ということではありません。
寄り添うんです。でも幸せなんです。
そしてその幸せを分けてあげるんです。
しっかり感じた幸せを、きちんと優しく分けてあげるんです。

憐憫は悲しみに栄養を与えることがある。
幸せは希望に栄養を与えます。

命は勝つ
大切な一日を、また過ごして行きましょう。

最後にこちらをぷちっとしていただけると幸いです

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誰でも本当は命が勝つ、と信じているはずだ。でなければ、みんなとっくに死んでいる(All living beings believe that life will triumph, otherwise they would die on the spot.)」への2件のフィードバック

    • 匿名さん
      コメントありがとうございます。
      そうですね、悲しむ人によりそう幸せ、というか、幸せであって、
      そして悲しんだ人に寄り添うということかな、と私は思いました。
      でもこういうことは、言葉にしたりしてわかるものでもないのかもしれませんね。
      実際にそういう体験をしてみて分かるものかもしれませんし、
      また、同じ体験をしても感じ方が違う方がいるかもしれません。
      私は(以前も書きましたが)いつも考えている善意のことにちょっと絡めて考えてしまいました。

コメント

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