幸田露伴の「努力論」から、有名な「幸福三説」の中の「惜福」です。
「幸福三説」とは「惜福」「分福」「植福」の3つです。
「分福」「植福」は読んで字のごとく、です。
福はみんなに分けるものである、自分だけ幸せになるのではなく、
周りを幸せにして初めて自分も幸せになれる(「分福」)という考え、
また「植福」は、将来の幸せの種を植え、植物を慈しむように
その幸せを育てる=正しい努力をする、ということだそうです。
過去は変えられないけれど、未来には自分で挑戦できるんですね。
「惜福」とは、「福」を惜しがることではなく、
「惜しむように」「もったいないように」「福」を享受することだそうです。
日本の帰った際に買ってきた、大好きなしそちりめんを
少しずつ、少しずつ食べた自分を思い出しました・・・
・・・ちょっと次元が低かったですね。
この三つは、お互いに絡みながら、
「幸福」というものに対して私たちが考えるべき視点を与えてくれます。
「惜福」の文字を見て、何となく考えたことがあります。
何か自分に悦ばしいことがあった場合、
一つそこに「翳り」のようなモノがあると、残念に思う反面、
何となく「バランス」が取れたような気持ちになることがあります。
そういうご経験はないでしょうか?
よく「幸せすぎて、コワい」ということを言いますが
それは「こんなに幸せばっかり来ていると、今にどんでん返しがくるのではないか」
といったような気持ちだと思います。
以前も申しましたが、私は人間一人が受け取れる幸せの量は決まっている、
とは思っていません。できれば、幸せはみんなにたくさんくればいい。
でも自分とその周りの人の輪の中で、全体のバランスのようなものは
なんかあるような・・・と感じています。
つまり、「一人勝ち」はつまらない。
それでは、私は本当に幸せとは思えないんだと思います。
一人勝てば、誰かが「負け」ます。
自分「だけ」が勝ったとすれば、それは、何かがおかしい。
また、自分一人が「幸せ」過ぎると、妬む人が必ず出てきます。
これは人間として当たり前の真実。
私も妬みの炎で燃え上がるときがあります。
そしてその妬みは、静かな心の湖に不穏な水紋を作ります。
少し「翳り」があれば、妬む側の溜飲も下がるということもあるかもしれません。
おかげで邪魔が入らずに「幸せ」を享受できる。
また、自分自身も舞い上がることなく「幸せ」の部分を感謝できるかもしれない。
欲張らないで、「幸せ」になる。
そういうことが「惜福」なのではないか、と思います。