アートというのは、職人芸からの解放なんだ。

ビートたけしさん、「間抜けの構造」からです。

惜しまれて惜しまれて逝ってしまった中村勘三郎丈。
生前に「型をしっかり覚えた後に、『型破り』になれる」
というようなことを仰っていたそうです。

「型」は知らなくてはならない。
知っているからこそ、その「型」を破れる。
「伝統を守る」というのは、
ただ単に「その形を伝承する」だけでは、
ないのですね。

 

 

時にはもうその「型」を
何の苦もなくすでに会得して生まれてきたような方がいます。
でもその一方で、我々の大半は
まず苦労してその「型」を理解しようとします。

どのような事柄にしても、その「型」ができてきた歴史を考えれば
そこには必ず理由や目的があります。
それが正当か適切か合理的かは別にして、
何か、あります。

よく「型」にハマることを嫌う人たちがいます。
恥ずかしながら私もその一人です。
でも私は、以前も書きましたが、
「礼儀正しい不良」になりたかったため
社会から、人から、何が求められているのか、ということを
頭から否定したことはありませんでした。

以前ニューヨーク大学の夜間大学で映画製作を学んでいるとき
先生がこういいました。
「大体今の生徒はみんなミュージック・ビデオのような映画を撮る。
それでいい。でも自分がオリジナルだとは絶対に思うな。
自分ができることは Cliché (使い古された陳腐なもの)だけ。
最初はそれでいい。 Cliché もロクに撮れないヤツに、
オリジナルなんて撮れない。
悔しかったらものすごい Cliché を撮ってみろ」

当時何となく分かったような分からないような
それでも感覚の隙間にずどん、と入ってきた言葉でした。

「型」を知っているからといって、
必ずしもその道のプロといえるとは限らない。
「型」を知らないからといって、
オリジナルなものが作れないとは限らない。

ただ、「型」も知らないで「型」を否定したり
実は「型」にハマっているだけなのに
自分のオリジナリティだけを押し出すのは、
何となく格好が悪いような、そんな気がするんですね。

何かをしっかり理解して自分のモノにした時に、
やっと「解放」される時間が向こうから訪れてくれるのではないか。
何となく、そう信じているのです。

最後にこちらをぷちっとしていただけると幸いです

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