Mary-Louise Parker の言葉です。
「人と違え」と言われて育った私は、
少しだけ彼女の言っていることが分かります。
「ヘンなの」というのを褒め言葉だと思っていた私(笑)は
ずいぶんそれで命拾いをしたと思います。
「違う」ということは、問題だったり、魅力だったりするようです。
でもそれは人によって違いますし、同じ人でもそのシチュエーションによって
感じ方が変わったりもします。
カップルも
「正反対だから惹かれ合」ったり
「価値観が違う」から別れたりするようです。
私たちは自分が理解できないものを「違う」
と片付ける傾向があります。
結局「分からない」あるいは「違う」というラベルをつけることによって
それを自分なりに位置づける努力をしているのだと思います。
・・・でもちょっと「上から目線」の発言だなぁ、と
私は思ってしまいます。なんとなく
「分からないのはお前が悪い」
「違うのはお前の方だ」
といったトーンを穿ってみてしまう私のひがみ根性故かもしれません。
私たちは物事や人物を、自分が持っている尺度や秤で計ります。
自分が「分からない」「違う」と感じる場合、
それで計れないと「訳分からん」となるわけです。
ですから「分からない」や「違う」には
「心地悪い」
「嫌い」
「コワい」
などの感情が隠れていることがあります。
そう思っているのに、「分からない」「違う」で片付けているわけです。
自分が定規しか持っていないと、重さは計れません。
自分が時計しか持っていないと、温度は計れません。
だから「分からない」ものを「分かろう」とするとき、
「違う」ものを「同じにする」、あるいは「そのまま受け入れよう」とするとき
それが難儀に感じられるときがあります。
自分が持っている道具だけでは事足らないからです。
そしてまた、その作業には、実は
「嫌いなものを好きになる」
「心地悪いものに慣れてみる」
「コワいものに挑戦してみる」
などの作業をしていることもあります。
「分からない」「違う」と思うことは全く自然で問題のない行為です。
でも「分からない」「違う」と排除する前に
受け取る私たちにもたくさんの尺度や秤の在庫チェックをする必要があります。
自分が持っているもので計れない場合は、
「あ、ちょっと待ってて。今湿度計買ってくるから」
と言わなくてはいけない時もあるのではないでしょうか。
また自分が「分からない」「違う」というときに、
その自分の本当の気持ちは何なのか。
嫌いじゃないのか。心地悪いんじゃないのか。コワいんじゃないのか。
そういったことに正直に向き合う必要があるときもあるのではないでしょうか。
・・・そうしたら「ヘンな」人たちも、少し救われるような、
そんな気がします。