憤せざれば啓せず。悱せざれば発せず。

孔子先生のお言葉です。
今では「啓発」というと、ちょっと怪しい響きさえ含んでしまいますが
もともとは、こんなに厳しい言葉からだったんですね。

 

 
「学ぶ」とは何なのだろうか、とよく考えさせられます。
なぜ考えさせられるか、と考えてみれば
「学び」についてありがちな「ストリート vs アカデミック」のような
短絡的な比較において互いの欠点を語るような
そのような議論に端を発していることが多いようです。

この間、ちょうどそんな議論でぷんぷん怒っている友人の話を聞いていたので
また考えてしまいました。

変な議論だ、と私には思えます。
両方、なのだから。
というよりも、そんな区別は、ないのだから。

そういう議論をする方は得てして
相手に対して決まりきった「学び」の概念を押し付けます。

「ストリート」な方は、「アカデミック」な方に対して
学校に行ったり小難しい本を読んだりする、優等生。
でも実生活では使えないから大成しない。

「アカデミック」な方は「ストリート」な方に対して
その「学び」がまるでLegitimateでないような先入観。
体系だった知識は何もない。

「学ぶ」という理解が、根本的に違っているんでしょうか。

これは、私の考えなので、そうではないと思われる方もいるかもしれません。
また、「学び」を何かの道具と考えると、この議論は成り立たなくなるでしょう。
それは、それとして理解しています。

でも私が思う「学び」というものはどこでもできるもので
自分の人生を豊かにするもので
学校や教科書や先生は、あくまでその「きっかけ」にすぎないように思えます。
もちろん、興味や熱意を共有する仲間に会える場所で学べれば
自分のIntellectualな部分を刺激してくれるものに出会える場所で学べれば
その効果は倍増すること間違いないでしょう。だからチャンスがあったら、行けばいい。
でも行かないからと言って、学べないわけではない。
自分の好奇心を満たしてくれるものは、そこここにあります。
だから、どこでもいい。

本当に「すごいなぁ」と思える人は
最後にきちんとその見えない線をCross Overするではないですか。
それはなぜかを考えれてみれば、見えてくるものがあると思います。

少しでも「教育」に近い場所にいる以上
曲がった影響を学生たちに与えないようにしようと
また思いました。

そしてまた自分も
これからきちんと「学び」たいと思いました。

最後にこちらをぷちっとしていただけると幸いです

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