よく、いろいろな場面で使われる表現です。
それしかできなかった、他に選択肢がなかった、という場合に
こんなことをよく言います。
先日、NY州立大学のキャリアセンターが集まる会議がありました。
その中のBreak Out Sessionのひとつ、「障害を持つ人たちへのキャリアカウンセリング」で
外部から招待されたスピーカーの方が
ご自分の経験を話されたときに、こうおっしゃったのです。
その方は生まれつき、腿から下、肘から先がありません。
身長は1mくらい、とおっしゃっていました。
とある仕事についたとき、その会社にはエレベーターがなく
2回のオフィスから1階のトイレまで
2年もの間、何回も、何回も、行ったり来たりして働いたそうです。
エレベーターが着いたのは2年後。
ただただ、働く。
What else could I do? Right?
大学で一緒に頑張っているスペシャル・プログラムの生徒たちの顔を思い出し
涙が出てきました。
彼らを憐れんで、ではありません。
自分の感情をどう認識してよいのか分からず、です。
身体的なチャレンジと、精神的なチャレンジと。
どちらの方がつらいとかラクとか、有利とか不利とか
そんなことはありません。
この3月から、Federal Contractor(政府機関と仕事をする団体)は最低7%
障害を持つ方を雇うことが義務付けられました。
だからといって、単に喜ぶだけで終わらせられない状況があります。
みんながみんな雇われるわけではない。
自分ではどうしようもない大きな壁に
途方に暮れることがあります。
また、自分がこの生徒たちと「働く」と考えたとき
もちろんいいことばかりではないはずです。
環境や話し方を、それぞれ変えて接することも時には必要になる。
人には声高に「雇うべきだ」と言って、
じゃあ、自分は雇えるのか。雇うのか。
もちろん答えはYesなのですが、クリアカットなYesではなく、
そこにはある形の覚悟があるわけです。いろいろな人を受け入れる準備が
それなりに必要だからです。
それが私のBiasです。
そのBiasをこれからも見つめ続けて
私は偽らないように生徒に向き合わなくてはならない。
その思いを新たにして、会議から帰ってきました。
でも、そのスピーカーの方が言った
What else could I do? Right?
ここに至るまでの彼の来た道を考えると
到底私の想像の届かない、壮絶なものであるわけです。
そしてその方も、周りの方も、そしてその方となんらかの形で関わったすべての人も。
いまだに感情の整理ができていませんが、また9月新しい生徒さんが入ってくるまで
ゆっくり考えてみたいと思います。