人生を捧げた人間より捧げられた人間の方が辛いのかもしれない。

2015 0918 Let's get out

「何をしても幸せにならなきゃいけない人生なんて、生きること自体罰みたいなもんじゃないか。」
テレビ版「白夜行」の一場面です。

人間は、勝手な生き物です。
捧げる方も、捧げられる方も、勝手なのかもしれません。
勝手に人生を捧げる分にはいいのですが、
捧げたことを相手に告げられた場合、そんな重い枷はない。
捧げたからには言いたくなるのも、人情なのかもしれませんが。

親子関係にも、これが起こります。
少し前に日本でも「毒親」という言葉が流行りましたね。

 

80年代の終わりにアメリカで出版された「Toxic Parents」が基になっているのでしょう。
もちろん、誰も「毒親」になろうと思ってなってるわけではないと思います。
なる方にもなるだけの理由や苦しみがあり、
それが自分一人ではどうにもならない場合もあります。

また、「毒親」に育てられた子供たちがすべて何か問題を抱えるかというと
そういうわけでもありません。
他人から見て「毒親」でも、子供にとってはそうでないときもあり
他人から見て「理想的な親」でも、子供にとっては「毒親」なこともあります。

ある意味結果論である部分もあり
だから難しいのですよね。
「毒親」に限らず、子育ては、完成品を見てから・・・ということが多いから
本当に難しい。

カウンセリングでお会いするクライアントの中でももちろん
「ああ、世の中の分類では「毒親」に入るんだろうなぁ」
「いわゆる「毒親」の影響が今も及んでいるんだろうなぁ」という
親サイド、子供サイドの方々にも多数お会いしてきました。
ご本人に自覚がある場合も、ない場合もあります。

何かをコントロールできることに喜びを感じるのは
人間として自然の摂理です。

子供は最初、自分の無条件の愛に無邪気に反応してくれる。
この時間が永遠に止まってほしい。

でもこれはお子さんを持った方に限ったことではない。
誰でもそうです。
何か自分にコントロール可能なものがあれば
それを操るのは、決して難しいことではなく、どちらかと言えば、心地よい。
そう考えると、人に対して俗に「コントロール・フリーク」と言われる方は
ある意味「毒人」なのかもしれません。

ただ、親子関係には、少し面倒な概念がついてきます。
儒教の「孝」、いわゆるfilial pietyというものは
私たちが思っている以上に、個人に、共同体に、社会に根づいているものですね。
だからこの問題がもっと深く、深刻になるケースがあります。

・・・とこれだけ書いてきて
最後の下げは何かというと
「最後は本当の親の愛が毒性に打ち勝つ」という考えです。
いつもクライアントさんとお話ししていて、そう強く感じます。
「溺愛」ではありません。「動物的な愛」でもありません。
お恥ずかしいのですが、いつもそう感じながら、「では本当の親の愛とは」と問われると
言葉にできません。

まだまだですね。中途半端な投稿で申し訳ありません。

最後にこちらをぷちっとしていただけると幸いです

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