いつか「ヨルタモリ」でタモリさんがこんなことをおっしゃっていました。
そうなんですよね。
これは、人だけではなくいろいろな場面にも当てはまりそうです。
理由があるからやれないのではなく
やりたくないから理由が見つかる。
だからやっぱり
「好き」に理由はいらないんですね。あるかもしれません。でもいらない。
だって、理由なんて考える必要ないんですもの。
以前も書きましたが
「やっぱりやりたくない」時
人は饒舌にその理由を話すことができます。
逆に「やりたいとき」は
「なんとなく」な場合も多い。
「なんでもいい」場合も多い。
カウンセリングをしているとちょっと「イヤらしい」人になり
相手のしぐさや小さい言葉の使い方ひとつひとつを
少しずつ、すこーしずつ、気づかれないように紐解いていく作業を
行わなくてはならない時がなります。
でも昔の人はやっぱりよく言ったもので
モノの本に書いていることは100%正解でなくとも
膨大な経験に基づいた統計からくるかなり正確な分析なのだと
いつも思います。
これは私の人格や性格からくる偏見が大きく関わっている考え方ですが
やっぱり言葉ですらすらと説明できるときには
内側にはあまりエネルギーが渦巻いていないことが多いです。
もちろんそれは悪いことだけではなくて
きちんとした言葉で外の世界に伝えなくてはならないときには
あまり中でぼーぼーと燃え盛っているよりは
熾き火のように落ち着いている方がよいと思います。
でも、カウンセリングではそれだけでは物足りないことが多いのです。
言葉にしたとたん自分から離れていくものに神経を集中したら
それは内側から気がそれてしまうのは当然でしょう。
ですから、あまりに饒舌な人は、少なくとも小さな赤いフラグがたってしまいます。
せっかくですから、燃えていただいて。
うごめいていただいて。
・・・そしてそれはとりもなおさずカウンセラーの責任というわけで。
そういう場をきちんと提供できるかどうかというのも
カウンセラー次第なのだなぁ、と。
そんなことを考えながら、今週も続きます。