おめおめと。

おめおめ

公園を散歩しておりましたら
恐らく障害を持っていらっしゃると思われる
大きなお子さんを車いすに乗せて散歩する親子に遭遇。
ヒスパニック系のアメリカ人と思われました。
目が合って、つい身体が動いて近づき「こんにちは。いいお天気ですね」と話しかけると
「本当に」そして立ち話。
お子さんにも声をかける。暖かい日差しの中で、無表情ながら少し微笑んだであろう彼。
「それでは、また」

別れて歩き出す私の目には、やはり涙がにじんできました。
それは憐れみからではもちろんなく、自分に対する腹立たしさからでした。

 
また、こんなこともありました。
先日、アスペルガー・グループの一人が引っ越しをしたので
新しいおうちでお祝いの会がありました。
文句なしの真夏日、本当は行きたくなかったのです。
行ってみたら「行く」と言ってた人の半分も来ていなかったのです。
ああ、もう。私だって来たくなかった。でも来たんだ。
ところが、そう毒づく私が恥じ入り消え入りたくなるほど
みんなは私を歓迎してくれました。
とてもとても楽しいパーティだったのです。涙が出るほど笑いました。
実は来たくなかったんだ、なんて考えもしない彼らのまっすぐな瞳が
なんの衒いもなく私の「偽善」を包み、軽々と、そしてきっぱりとそれを砕きました。
破片が飛び散らないように。私がケガをしないように。

私にとって「カウンセラー」という仕事は
とても(適切な表現かわかりませんが)楽しく
選んだことに少しの後悔もありません。
これでいいのだ、と最後にはいつも落ち着きます。

でもその反面、いつも自分の価値観と闘っています。
自分の「偽善」が嫌になるからです。
以前魯迅のことを書きました
その「石鹸の味」はいつも私の口の中にあります。
魯迅は「偽善」とは言わなかったようですが、私は総括してそう呼んでいます。
「石鹸の味」は牽制機能なのだ、と納得しようとしていますが
こればかりはどうしようもありません。
決して悪いことだけではない、ということだって分かっていますし
自分のやっていることに少しは意味があるのだ、ということも
実は自負しています。
だから慰めの言葉も諭す言葉も、必要ないのです。分かっているのですから。
でもどうしようもない「石鹸の味」なのです。

・・・そんな「ぐるぐる」を、こんな歳になってもやっているのはやはり
私が持つ「幼稚さ」なのだと、つくづく思います。いくつになったんだい、まったく。

それでも、これからも少しでも分けられる生活の幸せを集めていこう。
私だけが知っている哀しみと幸せがあるはずだから。
そうやってまた「おめおめと」
恥じ入ることなくへらへらと出かけていくとしよう。

最後にこちらをぷちっとしていただけると幸いです

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