極めて私的なものだけが、普遍的になり得る。

アートについて考えるとき
それが小説だろうが映画だろうが音楽だろうが
いつもこのことを考えます。

私的なものは独りよがりじゃないのか。
普遍的なものとは、何なのか。

考えていると、別にアートだけではなくて
仕事だろうが毎日の生活だろうが
どんなことにも当てはまるような
そんな気がしてきました。

 
実は今回はあまり書けません。
頭の中でこの言葉があまりに強烈に鳴り響いていたために
備忘録として記しました。

いつかきちんと書けるようになったら書きたいと思いますが
今日はただ
私的なものをたくさん蓄えて
それを噛み砕いて昇華させたとき
それが普遍的になるのではないかと
そう思ったことを書きたかったのです。

勤務する大学は芸術系の専攻が強い大学なので
毎日素晴らしいポートフォリオを目にし、耳にする機会があります。
そんな中でも、この言葉を噛み締めることが多いのです。
形は整っているのに、ココロに残らない作品。
稚拙でアラだらけなのに、ココロに刻まれる作品。

普遍から私的になることもたくさんありますが
でも何か、それでは私には響かないような気がします。
また、きちんと昇華されていない私的なものは
その段階で押し付けられても、共感できません。
それが「cliché」 と「I dig it!」の差になるのではないかと
そう思うのです。

そしてそれは私たちが日々取り組んでいる生活でも、
また、日々発信したいすべての情報やパッションや感情にも
当てはまるのではないかなぁと
そう思ったわけです。

カウンセラーなどは、自分の価値感を消す練習をします。
「消す」ということが適切でないなら、「抑える」というところでしょうか。
でもそれならカウンセラーはみんな一緒になってしまう。
自分がカウンセリングを行っている価値をどこにどのように表すのか。
その時に、真に私的なものが本当に意味を持つこともあるのではないか。
時折仕事を通じてそんなことを感じます。

・・・でもやっぱり発信する前に
きちんと自分で昇華していないといけないんだなぁ。

消化不良で昇華していないエントリー、反省しています。

最後にこちらをぷちっとしていただけると幸いです

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