Empty your mind, be formless, shapeless – like water. Now you put water into a cup, it becomes the cup, you put water into a bottle, it becomes the bottle, you put it in a teapot, it becomes the teapot. Now water can flow or it can crash. Be water, my friend.
Bruce Leeの言葉です。ちょっと長いんですけど、
普段「あ~ちょ~」の印象しかない人が饒舌なのがなんとなく嬉しく全文引用(笑)。
ニューヨークでは、ご存知のとおりヨガとか気功とかMindfulness Trainingとか、
ちょっと東方的な香りがするトレーニングが流行っています。
仕事帰りや週末など、特に女性が目立つのですが、ヨガマット持って颯爽と歩く姿が見受けられます。
「毎日私は瞑想しているのよ~」なんていう友人もいて
何回かトライしただけで、まだまったく瞑想のstate of mind(精神状態)を体験できていない私は
ちょっとわけもなく焦りながらそういう人たちの話を聞いています。
でもいつも、なーんとなくなんですが、ちょっと不思議に思っていることがあります。
ヨガとか気功とか瞑想って、私たちの精神を落ち着かせるためのものだと思っているのですが、
どうもヨガやら気功やら瞑想やらやっている人の中には、
なんとなくギスギスしたり、イライラしている人の方が多い気がするんです・・・・気のせい?
毎日トレーニングを続けていくのは大変です。
三日坊主、っていうのは誰とも仲良しで、時にはそれが一日だったり一ヶ月だったりするものの、
坊主はあっちこっちに出没します。なんででしょうね。
何かを続けるのも難しいのですが、その目的を見失わない、というのも、とても難しいと思うんです。
たとえば毎日瞑想したとしましょう。
でもそれは「瞑想する」ことが目的なのではなく、その瞑想の向こう側にある、
精神状態を手に入れようとして頑張ってるわけです。
なのに、なぜか瞑想してる、っていうだけで、小鼻ひくひくのニューヨーカーたちはたくさんいます。
うーん。やっぱりなんだかむずむずします。
そんなむずむずを抱えていたら、先日読んだ佐々木閑「日々是修行」(ちくま新書)の中に、
そのもやもやを解く鍵をやさしい言葉で説明している部分があり、なんとなくすっとしたのでお借りしたいと思います。
この本の中で、佐々木氏は「修行」について何度も語ります。
「毎日の掃除や洗濯が修行になるなら、家事に追われる家庭の主婦が真っ先に悟りを開くはずだし、
つらい思いをじっと耐えるのが修行なら、会社で四六時中つらい思いをがまんしているサラリーマンは、
みな聖者である。」
でも、そうじゃない。続けて氏は、修行は「道具」であることを強調します。
「修行は修行。ただそれだけである。
たとえば坐禅をするにしても、邪悪な心でするとなれば、邪悪なものになる。」
これらのことが仏教の観点からどれだけの意味を持つものかは、私には分かりかねますが、
ただこれらの言葉は非常に示唆に富んだものだと思います。
ゴールを設定してそのゴールに向かって走り始めたはずなのに、
いつの間にか走ることが目的になっている。
それだけならまだいいんですが、本来なら「走ってゴールに着いたあの人はエライ」となるはずが
「走っているからあの人はエライ」そして遂には「走っている人はエライ」となります。
・・・そんなことを言われてしまうと、走らない私のような人はどきっとします。
私は走れない。だからエラくない。よってゴールも達成できない。
・・・・悪循環のらせん階段を一気に駆け下りてしまいます。
目的と手段が、あっという間に入れ替わる瞬間です。
どうやってゴールに到着するかは、試行錯誤を繰り返して選んでいけばいいんです。
人にとってうまくいくことも、私にとってはうまくいかない。
私にとってうまくいくことも、人にとってはうまくいかない。
それぞれ違うんですから、当たり前です。
目的を達成するための手段を楽しむのはすばらしいのですが、かといって、目的を見失わないように。
そうすれば、やり方によって劣等感を持ったり敗北感を持ったり、ということはなくなるはずです。
なぜ、今あなたはそれをしていますか?
何かをすることがツラくなったら、ちょっと立ち止まって確認してみましょう。